2.鉄炮組駐屯から定住へ

同心くん

 要所を守る同心たちは大所帯になり、やがて住む場所が足りなくなるんだよね。

同心ちゃん

 そうね。前にも一度解説したからその辺のお話はばっちりよね?

2.鉄炮組駐屯から定住へ

 慶長七年(一六〇二)。家康公が鷹狩りで中野坂上宝仙寺にて休憩した折、内藤清成は、鉄炮組百人同心が一定の居住地がなく難儀をしている旨を申し上げたところ、家康公より適当な場所を選定し住まわせるようにとの命があり、内藤氏の見たてによって大久保百人町一帯に住まわせるようになりました。

 そういった経緯でこの地に建てられた「大久保百人町大縄屋敷」は現在の百人町一、二丁目にあたり、嘉永四年発行の近江屋版「江戸切絵図」にはっきりと図示されております。

 その形態は現在の小滝橋通りに面し、大久保通りを挟み、左角の三和銀行とホテル海洋、右角の太陽堂文具店の所に西詰めの表木戸があり、一方、裏木戸は大久保通りを東へ向かい、明治通りに面する国民銀行の所にあり、各木戸には終始木戸番をおき、江戸の西側を守る拠点とし、一つの砦として造られ厳重な取締りをしておりました。屋敷内の内訳は与力屋敷二十軒、同心屋敷が百人町一丁目側に五十軒、二丁目側に五十軒が軒を並べておりました。 
 続く町筋(現大久保一、二丁目)に玉薬同心屋敷があり、木戸内部全体に日常の生活用品を商う町屋も混じえておりました。町筋は大久保通りの一直線上にあり、道幅は狭く三間幅(一間は一・六メートル)程で、各屋敷の間口も狭く三間から四間につくり、奥行きは三十間から五十間と深く、丁度鰻の寝床のように細長い敷地に建てられ総坪数十五万二千坪強の面積がありました。

 この独特の造りは一見すると利便性に欠けるように思えますが、間口が狭いと一度に大勢の敵が侵入しにくく攻めるのに困難。奥行きが長いと敵を待ち伏せ反抗の機会が生まれやすく、逃げやすいように設計されており、非常に理にかなったまちづくりとなっているのです。

 この組屋敷の中心には鉄炮百人組の守護神である「皆中稲荷神社」(皆=みな、中=あたる)が鎮座されており、組屋敷の北側(現在の百人町三丁目)に隣接して広大な面積をもつ大筒角場がありました。角場とは火縄銃の日頃の練習に使う実弾射撃場のことで、ここは明治新政府となって鉄炮百人組から旧日本陸軍へと移行され、戸山ヶ原射撃場、戸山ヶ原練兵場となり、戦後は学校、公団住宅、公園、スポーツ施設等へ移り変わりました。

参考文献

『日本人名大辞典』 平凡社
『江戸幕府役職集成』 雄山閣
『国史大辞典』 吉川弘文館
『昭54 新宿文化財総合調査報告書№5』
新宿区教育委員会
『将軍の護衛集団』 名和弓雄著
K・Kベストセラーズ発行

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