そこで登場したのが今で言うところの集合住宅「百人大縄屋敷」よ!
4.百人大縄屋敷に集う鉄砲隊同心たち
1630年幕府を開いた家康は、江戸を城下町として栄えさせることを目的にたくさんの大名屋敷や武家屋敷をつくりました。
それにより屋敷や寺、神社の間に町屋が広がり町人の数も増えていった一方、城下町の外側に位置していた百人町大久保地区はほとんど農村で開発がされませんでした。
そこで、慶長7年(1602年)家康が狩りで中野の宝仙寺に休憩した際、内藤清成は鉄砲隊同心が一定の住居地がなく困っていことを伝えました。すると家康は内藤清成に、適当な場所を選んで住まわせるように命令。新宿周辺を調査した結果、西大久保の地を定めて住むことにしました。結果、できた土地が大久保・百人大縄屋敷。これが百人町のいわれとなりました。
はじめは陣屋形式の居住地でしたが、次第に狭い間口で奥行きの長い武士屋敷を造るようになりました。これは、攻められた時に敵が入りにくく逃げやすい設計であり、重要な地を守るゆえの工夫として定着していくことになるのでした。
参考文献
新宿区の歴史昭和52年
新宿区町名誌昭和51年
とやまー思い出の記ー第8集
新宿区歴史博物館常設展示図禄平成元年
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ぼくたち同心たちも大所帯になってきたね。