8.終戦と商店街の結成。希望を込めた「明るい会」

同心くん

 そして、時代は戦後復興~現代につながっていくんだね。

同心ちゃん

戸山ヶ原には軍事施設があったから、9割以上が焼失したといわれてるわ。そんな経緯があったからこそ「新宿百人町”明るい会”商店街振興組合」という名前になったのよ。

8.終戦と商店街の結成。希望を込めた「明るい会」

 昭和20年8月、日本は連合軍に全面降伏した際の百人町、大久保地区は陸軍が施設があったせいか、連合軍の猛烈な空襲にあい9割以上が焼失していました。こうした状況下では、区政の運営もままならず、淀橋区(百人町、大久保含む)の一部が渋谷区か中野区に併合されるという意見もありました。

 しかし、焼野原となった百人町にも昭和20年9月頃から戦前の商店主等が近隣地に先がけ、困難や苦労とたたかいながら次々戻って開店。依然として、商店はまばら、道路もでこぼこ、埃だらけの砂利道で、さらに夜は真っ暗闇で追いはぎの出そうなさびしい通りでしたが、少しずつ商店街の形態がととのっていきました。

 そして、昭和22年。有志の方々により「百人町のまちを明るくしよう」と街路灯の建設に着手し、木の柱に50個の電灯が灯され、この街路灯設置を機に希望の願いをこめ「明るい会」として商店街が結成されたのです。

 その後、日本の再出発を象徴する新憲法発布を経て、急激に発展した新宿の周辺は旅館や下宿などの住宅地ができ、通りには商店が漸増。町の復興と共に商店街も発展。昭和31年には新宿区創立十周年記念事業の都市美化運動の一環として、大久保通りに柳の植樹が行われました。

 昭和38年には、東京オリンピック、東海道新幹線完成の前年で日本中が湧きかえるなか、任意団体「百人町明るい会」より「新宿百人町明るい会商店街振興組合」を設立。東京都の第一号振興組合として認可され法人団体となった振興組合。初仕事として大きな予算のかかる商店街の顔「アーケード建設」に取り掛かり、今の商店街の形になっていきました。

参考文献

新宿区の歴史昭和52年
新宿区町名誌昭和51年
とやまー思い出の記ー第8集
新宿区歴史博物館常設展示図禄平成元年

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