7.戸山ヶ原と子どもたち

同心くん

 そうして、平和な時間のなかで百人町としての原風景が形成されていくんだよね。

同心ちゃん

「戸山ヶ原」とそこで遊ぶ子供たち。自然豊かな風景。ビルが並ぶ現代では考えられない風景ね。

7.戸山ヶ原と子どもたち

 明治時代になり新政府は、幕藩体制を支えていた土地制度を解体。武家地は没収され、神社領も境内内以外の土地をすべて上地させました。それらの土地には陸軍施設が設定され、明治7年百人町・大久保地区にまたがる場所に陸軍用地として「戸山ヶ原」ができました。

 その後、昭和3年には陸軍射撃場が完成。東洋一の鉄筋コンクリ―ト射撃場が設けられました。空からみると7本の土管を並べた形で長さは300メートルと世界に誇るレベルの建物のほか、西側に余った土地を盛り上げた、高さ約30メートル位の通称「三角山」も造られました。

 戸山ヶ原は高低起伏のある地形で、ナラ林、マツ、クヌギなどの雑木林、その他一面の草原で軍隊の使わない時には、学校の遠足や家族連れの散策地となり、トンボ、セミ、バッタ、カブト虫を追っかける子ども達で賑わった。冬に雪が降れば、にわかスキー場ともなった。この戸山ヶ原の様子は文学作品にも多く描写されました。

戸山ヶ原の思いで

 当時小学生だった大島芳材氏の「戸山ヶ原の思いで」文の一部を紹介します。

 戸山ヶ原(現在の野球場やタワーホームズあたり一帯)は子どもにとって楽しい遊び場であった、起伏に富んだ草地があり、くぬぎ林があって、正月には透あげ、夏には暗いうちに起きてかぶと虫をとりをとり、バッタやイナゴを追いまわした。腰に棒切れを差して、チャンバラごっこに夢中になり、広い草地を駆けまわり、塾通いをする今の子どもには考えられない楽天地だった。広い空と澄んだ空気が、戸山ヶ原にいつもあった。
 山の手の線路を越えた向こうには、三角山という人工の山があった。高さは30メートルほどで、笹が一帯に生い茂り、ここも子どもの絶好の遊び場だった。登って頂に立つと、遠くまで見渡せて、西の方に富士山、丹沢、奥多摩、奥武蔵、秩父、そして浅間山までも望むことができた。夕焼けが広がると、子ども達の顔も体も赤く照らされて、空には雁がゆうゆうと列をなして渡っていくのが見えた。

 

参考文献

新宿区の歴史昭和52年
新宿区町名誌昭和51年
とやまー思い出の記ー第8集
新宿区歴史博物館常設展示図禄平成元年

Next→8.終戦と商店街の結成。希望を込めた「明るい会」

Back→6.同心のまちから、つつじの名所へ